■ある方の感性

宇多田ヒカルは、子ども時代の感性が鋭い上に、深いですね。

ただし、この文章は、書籍とする時点で、多少、話しを加えたり、
レトリックの妙もあるとは思います。
あるいは、ゴーストライターに「作文」なのかもしれません。

タレント本というのは、ゴーストによる創作や作文が多いものです。
以前、こうした仕事をしている方から話しも聞いていますので、
まあ、宇多田ヒカルも「その可能性はあるかな」と思う所はあります。


ですが、もしもこの本が、宇多田ヒカル本人の手で書かれ、
本当に幼少期にこうしたことを感じていたのなら、大したものですね。
ひいき目無しに、素晴らしい感性だと思います。

宇多田ヒカルの、幼少期から成人にかけての人生行路よりも、
宇多田ヒカルが感じたことや洞察に、とても興味があります。

ただ、作文や創作の可能性もあるとは思いますが^^;





~引用~


はじめに

14才くらいからインタビューを受けるようになって気が付いた
——「今まで自分のことを考えたことがあまり無かったんだな」。

人と話をするのは脳が刺激されて好きだし、赤の他人の質問に答えるうちに、それまで知らなかった自分が見えてくることもある。でも、10年前の自分がインタビューで何を言ったかなんて全然覚えてない。その場その場で正反対のこと言ったり、かっこつけたり、テンション高すぎたり、嘘ついたりしてると思う。

でもいつでも本気。


0~8才
基本ができるまで

泣いたって
何も変わらないって言われるけど
誰だって
そんなつもりで泣くんじゃないよね

おぎゃー!

引っ越し、引っ越し、だくさん引っ越し、空港、飛行機、飛行機の中楽しい、道路のわきでおしっこしなきゃいけなくて恥ずかしい、ハサミ使うのがうまいってほめられて嬉しい、鼻をかむと脳みそが全部出ちゃうって言われて信じてた、サンドイッチ噛んだら抜けそうだった乳歯がねじれて痛い、自分のバースデーパーティーで急に悲しくなってすみっこに座る、心配されて余計悲しい、大人の言い争い、大人の会話、大人の笑い声、ママ大好き、ママこわい、お父さん大好き、お父さん嘘つき、消えたい、テーブルの下にいると落ち着く、くやしい、ママのステージ衣装が家にある、鮮やかなマジェンタのドレス、金色のハイヒール、キラキラの大きな宝石、ディオールの赤い口紅の味、ママの公演をステージのそでからずっと見てる、すごい音、光、闇、集中力、熱、ママ泣いてるみたい、お客さんの方を向いてる、私の方は見てない——。

一緒に出かけた時に「藤圭子さんですよね?」と気付かれると母はいつもすごく困ったようだった。少し傷ついているように見えた。有名であることはいやなことにしか思えなかった。いろいろな目的の人がいつも私たちの周りにはたくさんいて、私はその人たちが嫌いだった。

お金や人間関係のトラブルが絶えなかった。

親は普通の生活をしていなかったし、激情的で、世間からいつも異分子扱いされていた。娘の私からしても、なんて非常識な人たちなんだって理解に苦しむことが多かった。

夜、寝る前に、「明日から日本に帰ることにした」と告げられ、クラスメイトにお別れも言えないまま引っ越す、みたいなことが普通にあった。そんな親に対して自分の無力さを思い知らされ続けた私は、おとなしくて頭の良い子に育った。

トランプカードで神経衰弱、パズル、読書、お絵描き、空想ごっこ、ぬいぐるみと遊ぶのが好きだった。

5才くらいまでは、ゲームに負けたりピアノがうまく弾けなかったりした時、根っからの負けず嫌いなために悔しくて悔しくてその度に泣いた記憶がある。それがだんだん、悔しい時も悲しい時も、泣かない子になった。母の前で泣くと、ひどく怒られたから。悲しくて泣いてるのは私なのに、なぜか彼女の方が傷ついて、泣いて、私を責めた。すると私は泣く気が失せた。泣くよりももっと深い悲しみを知った。彼女に悪気は無いんだ、って分かってしまう自分が、体の芯からひんやりしていくようで、こわかった。

それは子供にはとても辛い、母親からの拒絶、というものだった。でも彼女にはそんなつもりはない。彼女は本当に純粋で美しい人だ。私をとても愛してる。私が勝手に拒絶された気になってるだけかもしれない。

そして父は、「弱音は吐かない、甘えは禁物、愚痴などもっての他」という武家の名残を感じさせるような人だった。

私はどうしたらいいんだろう。文句なんか言える立場ではない、こんなに恵まれた生活を送ってるのに…。

親の前ではもちろん、人前で決して泣かないことにした。慣れれば、音を立てずに泣くのは案外簡単だった。ドアの開け閉めの際に音を立てないよう注意するのと同じだった。

*その随分先の話だけど、中学の部活(バスケットボール)で私の所属するチームは地区大会の決勝戦で負けることになる。チームメイトは泣いた。私は、一人でトイレに着替えに行って、そこで静かに泣いた。「ひかる、感じ悪いね、みんな泣いてるのに冗談なんか言っちゃってさ、どっか行っちゃうし、冷たいよね」なんて陰口を叩かれた。一人だけ、「ひかる、あの時さ、トイレで泣いてたんじゃない?」って話しかけてくれた女の子がいた。私はその子を親友に選んだ。

9才の時、怒りとか不満といった感情が完全になくなっていることに気付いた。

外界になにも求めなくなっていた。
(私の求める救済はそこにはないんじゃないかな…。)

その感じ始めると、外界の出来事にいちいち心を振り回されるのは時間とエネルギーの無駄にしか思えなかった。「間違ってる」と感じる他人の行動や世界のあり方を、理解しようとするのをやめた。「どうして?」なんて問うことは無意味に思えた。外の世界のことは、ただ「知る」だけでよかった。

自分の内側の世界のほうが大事だった。そこには自由があった。想像と思考は無限で、最強だと思った。

うちに秘めた想いには、神聖なものが宿るようだった。

「諦め」という屍を苗床に、「願い」と「祈り」という雑草が、どんどん私の心を覆い尽くしていった。絶望が深くなればなるほど、この雑草もたくましさを增すようで、摘んでも摘んでもまた生えてくる、やっかいなものだった。

でも「願うこと」「祈ること」は、「求めること」と決定的に違う。それは「希望」と「期待」の違い。(前者は、してもいいことなんだ…っつうかどうしようもなくね?)と気付いた。それに、願いと祈りをなくしたら私になにが残るだろう。人ではいられないだろう。

ならば雑草よ、好き放題に生えるがいいっ!

とにかくいろんなことを学びたい、吸収したい。楽しいことも怖いことも、良いことも悪いことも、成功も失敗も、出会いも別れも、みんな私の世界を大きくする。同等の価値がある。私を豊かにするものを拒む理由はない。どんなことも受け入れられる。

——8才までに形成された、私の基本姿勢です。

基本は、ぶち壊すために学ぶもの。何を基本とするかはさほど重要ではないと思う。どれも、一つのスタートの型。


十代の始まり
破壊

母さんどうして
育てたものまで
自分で壊さなきゃならない日がくるの?

私は、外界に振り回されたくない、と言いながら自分の殻の中で必死にもがいてるだけだった。なんでも受け入れる、なんて言いながら、ただ現実を無視しようとしてた。

でも、初めは「殻」が必要だったんじゃないかな。

武術やスポーツなんかで「まず型から入る」って言うじゃん?そんな感じで「まず殻から入る」ことにしたんだと思う。

内と外の境界線を見つけて、自分の分泌物で紡いだ繭の内側で、静かに成長する時間がほしい。私だけの、小さな部屋。私を振り回す大人も入ってこない、争いごとを持ち込まれない、私だけの小さな、家…。

私は早く成長したくて、早く親に追いつきたくて、その小さな家を内側から一生懸命支えながら、努力した。

外はあいかわらず、嵐だった。

私の「家」は何度も吹き飛ばされた。

童話「三匹のこぶた」では、一番目のこぶたがわらの家を狼に吹き飛ばされ、二番目のこぶたが木の枝で作った家を吹き飛ばされ、三番目のこぶたが頑丈なレンガの家を建て狼を負かして、最後には三匹が仲良く狼を料理して食べてハッピーエンドとなる。

私は、こぶただった。そして、狼なんてどこにもいなかった。

外の世界を冷ややかな眼で見つめたり見放したり、狼の幻影に怯えて頑丈な家に隠れたり、その場しのぎの気休めにしかならない偽の安心の虚しさにすがる必要も、ない。そんなことしなくていい。

安心は他人から与えられるモノじゃない。種が実を結ぶまでゆっくり、大切に育んで、自分で自分に分け与えるモノだったのか~。ふー。浅瀬で溺れてたんだな私。

それに気付くまでの過去の出来事全てにかたっぱしから感謝した。世界の全てが有り難い、尊い。私も、尊い世界の一部。だから、安心。窓を開けて爽やかな風を肌に感じてるみたい。いつまでもこの窓は開けておこう、いつもこの風を感じていたい。

そんな雰囲気で始まった十代。

25才の今は、もう内と外を区別してない。どこにも家はない。私が私の家。世界が私の家。

あとは、その間のお話。


15才
デビュー

誰かの為じゃなく
自分の為にだけ
歌える歌があるなら
私はそんなの覚えたくない

親はいつも私をスタジオに連れて行った。小学一年生の頃からスタジオで宿題をして、スタジオでご飯を食べて、スタジオのソファーで寝た。今でもスタジオはどこよりも落ち着く場所。いつ、どこの国でも同じような内装と照明と乾いた空気。静かな湖みたい。スタジオは平和。

「光、ちょっとここ歌ってくれない?」って頼まれると、イヤだったけど歌った。自分の声がすごく変な気がして、恥ずかしかった。でも音楽はどんどん好きになってった。音楽をたくさん聴いた。

ある日、自分で歌作ってみなよ、って言われて、「そんなのやり方わかんねーよ!」と思いつつ、好きな曲をいくつか研究して、現代のポップミュージックがだいたいこういう構成で、こう展開して…みたいなことが分かってきた。学校の勉強よりも難しくて面白かった。どうにか一曲できた。10才。”I’ll Be Stronger”。イエーイ。

おそるおそる親に聴かせると、「良いじゃん!」と褒めてくれた。

私が発信者となり、親は受信者となった。それは禁忌的な快感だった。初めて私の訴えが親に届いた気がした。しかも、それは音楽にさりげなく隠されていた。ニンジン嫌いの子供をだまして、巧みにニンジンを隠した料理を食べさせたような、密かな勝利だった。

それはレコーディングを経て、12インチという形あるものになった。

どういうわけかアメリカのEMIとアルバムを作ることになった。今思うと、歌手になりたいなんて考えたこともなかった私がなんでそんなこと引きうけたんだ、って不思議だけど、13才の私は何も考えずにどんどん歌を書いて、レコーディングした。「できない」って言いたくなかった。それに、親ががんばってよりつけてきた話を断れなかった。

アルバムでけた。

そしたらなんかEMI USAなくなっちゃって、宙ぶらりんになってもうた。別になんとも思わなかった。なにも変わらなかった。

ただ、制作に関わった人間とお金やら権利やらのトラブルがいくつも起きて、社会勉強になった。憤りはなく、そういう人たちはそういう人たちなんだ、と思った。父も母も甘いな、とちょっと思った。

14才のある日、学校の帰りに、親の仕事で都内のスタジオに寄った。そこでたまたま三宅彰という東芝EMI(当時)のプロデューサーの目にとまったらしいのだ。お、なんか中学生くらいの制服の女の子がいる、誰かなっ☆みたいな。

後日、私のバックグラウンドを知った三宅さんから、日本語の曲を作ってみない?との連絡があり、またもや私は何も考えずに引きうけた。

そして記念すべき☆日本語曲第一号“Never Let Go”ができた。

で、スタジオでレコーディングする日がきた。14才のくそガキが生意気に歌入れをしきった。「今、地声で歌ったコーラスのとこ、裏声で重ねてみたいんだよね。バックボーカルとしてじゃなくて、シングルで、地声パートと対等のリードとして。じゃあ、はい、そこやりましょうか」とか。

これが三宅さん的に合格だったらしく、東芝EMIとアルバムを作ることになった。15才になった。大好きだった部活(バレーボール、バスケ、陸上)もやめて、放課後と週末は制作に費やした。歌手デビューの契約をしたなんて気付かなくて、ただ自分を試したいだけだった。なんだかオラ、わくわくしてきたぞ。

続いて出来上がった第二号と第三号を、一枚のシングル“Automatic/time will tell”としてリリースすることが決まった。

1998年12月9日の朝、いつも通り少し寝坊をしてあわてて学校へ向かった。


最初の二年(パート1)
有名になる

バカにする人達はきっと
ただ淋しいだけ
私もそうだった

“Automatic/time will tell”がじわじわチャートを登っていった。

学校から帰るとネットでオリコンのデイリーランキングをチェックするのが楽しみになった。なんだか信じられなかった。嬉しかった。

学校の友達には歌手やラッパーを目指す子が多く、みんな盛り上がってくれた。デビューしたという実感は全くなかった。まだ電車で通学してた。

さて、アルバムの制作も佳境に入りましたよ。

遊びたいな、と思うこともあったけど、学校の勉強が好きなように、仕事も好きだった。大人に囲まれて過ごすことには慣れてたし、むしろ学校にいるよりも仕事現場のほうが自分らしくいられる気がした。そこでは私は大人と対等の一個人だった。

大晦日の夜は“First Love”というバラードの歌入れをしてた。パーティー中の友達から「ひかるなにしてんの?!早くおいでよ!」的な電話がたくさんかかってきた。なんだかすごく遠い世界に感じた。結局、スタジオで新年を迎えた。1999年だー。わーい。

そろそろアルバムタイトルを決めないと!ということでみんなで案の出し合いっこ。なんだかなあ。

「一枚目だし、“First Love”でよくない?」と提案してみた。思いの他、みんな賛同してくれた。

1999年3月10日、私のデビューアルバム“First Love”が発売された。

あっという間に大ヒットになって、大騒ぎになった。なんかすごかったなありゃ。いったいなんだったんだ。全国で売り切れて手に入らないとか、実は藤圭子の娘だった!とか、ワイドショーでも大きく取り上げられ始めた。あわわわ。

家から出るところ、学校を出るところ、いたるところを写真に撮られて週刊誌に載るようになった。車に乗ってる時にとなりを走ってきた車から写真を撮られたこともあった。まじっすか?

電車通学もできなくなり、どこへ行くにもスタッフの車で送り迎えされるようになった。とても窮屈だった。

とにかく毎週週刊誌に載った。昔の写真、プリクラ、友達が売ったとしか思えないものや、身近な人が記者に話したとしか思えない内容も、でたらめもあった。人間としての尊厳を踏みにじられるような気がした。あー有名人になってもうた。きつい。

仲の良い友達が記者からお金を渡されて、私にインタビューをさせるために記者を校内へ案内した時は、さすがに驚いた。彼女たちにさほど悪気はなかったんだろう。(こんなことにも慣れなきゃいけないんだ…。)

それは有名人である母を間近で見て育った私にも想像しえなかった重圧とストレスだった。

好奇の目で見られることは、とてつもなく怖かった。たくさんのナイフで刺されるような思いだった。16才の女の子には耐え難いものだった。デビューしたことを後悔した。

一度だけ母に「やめたい」ともらした時、「じゃあやめればぁ?」と言われた。さすが藤圭子だなオイ。まあそりゃそうだけどさ~。っつかもう手遅れじゃね?

で、昔からそうしてきたように、私は耐えることにした。逃げ場は無い。文句を言ってもふてくされても後悔してもしょうがない。たくましくならなきゃいけない。外の世界に振り回されたくない。自分の置かれてる状況は、なにも特別なものではない。

少しずつ、私は変わっていった。

自分が随分とつまらないプライドを持っていたことに気付かされた。つまらないプライドを傷つけられるのは、カッコ悪かった。人の目を気にすることは愚かだと分かっていながら、気にする自分がイヤだった。

己の未熟さと格闘するうちに、だんだん、ひどいことを言われても、誤解されても、世間にカッコ悪いところを見られても、あまり気にならなくなった。それは全て一時のことだった。他人も、カッコ悪い自分も、許すよう努力した。許してしまえばこっちの勝ちだった。

どんどん心が広くなるようで、「これでいいんだ」と思った。

それまで約二年かかった。


最初の二年(パート2)
作詞とは

ああ 花に名前を 星に願いを
ああ 私にあなたを
ああ この窓辺に飾られていたのは
いつも置き手紙

同時期、家庭でも変化が起きていた。

私の仕事で父が忙しくなったのをきっかけに、しばらく安定していた親の関係がまた荒れ始めた。だい~ぶ、荒れ始めた。

親の離婚や再婚には慣れてたけど(彼らは今日までに6回そのセットを繰り返してる)、今回はちとわけが違った。17才の私はどちらに味方するか、選べる年齢になってた。父と母は、私にそれぞれの言い分を話した。あまりにも食い違う内容に、なにが本当でなにが嘘なのか分からなくなった。心が乱れた。

私は中立な立場であろうとした。それぞれに理由や感情があって、真実は一つではないと思った。とかなんとかクールなこと言っちゃってるけど、正直、できるだけ関わりたくなかった。なにより、争いごとを私の仕事場に持ち込まれるのがイヤだった。迷惑だった。

母が家を飛び出してから間もなく、私も家を出てホテル暮らしを始めた。

とまあ、そんな中、ちゃくちゃくと新しいアルバムの制作が進んでおりました。

セカンドアルバム“Distance”がファーストから大きく変化したのは、歌詞だと思う。この頃から、「歌詞を書く」という作業が自分にとってどういうものなのか、意識し始めたのであります。

20~30代くらいの人たちとばかり遊ぶようになった。年上の恋人もできた。自分より年上の人たちとの交流や恋愛からは得るものが多かった。

人と会話をすることの面白さを知った。くだらない話でも、真剣な話でも、テンポの良いかけひきにはありったけの思考力と表現力、言語力、想像力、それに反応の早さが求められ、脳みそがフル回転した。やべーマジ楽しいんっすけど。

17年間、私の中でぼんやりふくらむばかりだった「価値観」や「哲学」が、人との会話によって明確に見えてきた。驚くほどに、言いたいことがたくさんあった。それまであまり意識しなかった自分の考えや世界観を、他人にも分かるように言葉にすると、なんだかすっきりした。

数学の証明を解けた時の満足感に似てた。

それは、歌詞を書き終えた時の気分にも似てた。

デビュー以来、「歌詞ってどうやって書くんですか?」ってよく聞かれるようになって、困った。そんなの考えたことないっつうか、なんとなく浮かんでくるっつうか…。

今でも一番良い答えかなあ、と思うのは、19才の時、ディレクターの沖田さんとの会話の中で言ったコレかも――「どうしようもないくらい絡まってぐちゃぐちゃになったネックレスを、一生懸命ほどくような感じ」。

一見複雑に見えるものごとを、できるだけシンプルに表現する。

それは、どんな芸術表現にも通ずると思う。

「生きる」こともそんな感じなんじゃないかと思う。

浄化にも濃縮にも似たプロセス。切り捨てることを恐れては進まないプロセス。

ものごとの本質に近づこうとすればするほど、自意識というものが邪魔になる。自意識を消すためには、外の世界に全感覚を開かないといけない。

家の窓を全部開ける。ドアも開ける。えい、壁も壊しちゃえ。すると、空間はつながり、一つの空間になる。「自分」の境界線が消える。あらゆるものが無限に流れ込み、無限に解放されていく。

創造が始まる。

私にとって「歌詞を書く」という作業は、自分の無意識の中に隠れてる答えを明るみにひっぱり出すきっかけを作ることだ。

自分のことがよくわからなくなったり、人生に悩んでもやもやした気持ちが溜まることもあるだろう。そんな行き場の無い不安やストレスを、遊びまくったり酒飲みまくったり女遊びしたり、カラオケで歌いまくったり、バッティグセンターで発散するのもいいけど、それらはその場しのぎの逃避でしかない。いくら体が疲れても、なんか疑問が残んない?

もやもやを振り払うたった一つの方法は、例えば、歌を創る、文章を書く、写真を撮る、絵を描く、といった創作活動なんじゃないか。それもまた逃避の一つであるけど、やみくもにエネルギーを無駄遣いするのとは大きく違う。

創作行為って不思議。ただのストレス発散とは違って、内なるプロセスなのに、自分とは別の、形あるものが残る。

なにかを残すために「創作」するんじゃない。「作品」は「創作」の副産物に過ぎない。

自分の作品を見てそう思う。


大学、結婚
音楽とは

幸せとか不幸だとか
基本的に間違ったコンセプト
お祝いだ、お葬式だ
ゆっくり過ごす日曜の朝だ

高校を卒業した。仕事と学業を並行しやすいように、NYの家に近いコロンビア大学を受験して、合格した。

周囲からは「仕事ももうあるのにどうして大学に行くの?!」って驚かれた。私は仕事にありつくために大学へ行こうなんて思ってなかった。っていうかみんなそのためだけに大学行くの?と不思議だった。(そりゃやりたい仕事につくために大学で学ぶことは大事だけど。お金を払って得たいものを得に行く場所だ。)

ただ大学という未知の領域に踏み込んでみることに意味があった。それまでなかった、「なんじゃこりゃあ!わっかんねー!」的なクソ難しい授業や、面白い人たちと接する可能性を楽しみにしてた。高校で経験し損ねた青春的なものへの憧れもあったかもしれない。

で初登校日、驚いた。学校中で、私が日本のブリトニー・スピアーズ(笑)だとかいう変な噂が広まってて、興味本位で接してくる人、遠目から見る人が多かった。

校舎を移動する度に大勢のカメラマンの襲撃にあったり、ストーカーっぽい怪しい人物がキャンパス内に侵入してつきまとわれたり、帰ろうとしたら門の外に日本人観光ツアーのでっかいバスが停車してたり…東京にいる時よりさらに生活は非現実的で窮屈なものになった。セキュリティー面の問題から、ほとんどの一年生がする寮生活はあきらめて、自宅から通学した。

水泳の授業で、私のファン?らしい男の子が一人、ものすごい勢いで私を凝視した。避けようとしても常に私のすぐ後ろにポジショニングして、何度も事故にみせかけて体に触れてきた。授業が終わって更衣室へ戻ると私はトイレで吐いた。

受けたい授業があれば別によかったけど、そこまで「すげー!」とうならされる講義もなく、周りの生徒の多くが温室培養型で仕事経験も無く、初めて親元を離れた開放感で浮かれてた。

私はがっかりした。半年で、辞めちった。大学に私の求めているものは、なかった。

*唯一面白かったのは、遺伝子学の講義初日、極度の方向音痴の私は全く違う教室に入っちゃって、しばらくしてから間違いに気付き、講義中に静かに退室しようとしたら階段で滑って、ものすごい音とともに転げ落ちて、しーんと静まり返った教室から、必死に笑いをこらえつつ荷物を拾って出ていったこと。ああ笑った。大学に行けて本当に良かったと思った。

勉強したいなら自分でやればいい、それかおばあちゃんになってから大学に行ってもいい、私が今欲しいものはここには無い。でも、今しか作れない音楽、今しか歌えない歌がある気がした。頭のてっぺんから足の指先まで、私の細胞は創作活動を求めて震えた。そっか、今やるべきことはそれなんだ、と気付いた。

大学を辞めることが、私にとって初めての大きな人生の選択だった。勇気のいる決断だった。大学進学も、まわりのみんながそうしていたせいでもあったし、デビューも、親がきっかけを作って、周囲が促したからだった。

初めて、自分の意志でミュージシャンになったという意識が芽生えた。

次の大きな決断は、19才の時。結婚だ。

はじめにも書いたけど、アイデンティティーを探す、自分がどんな人間か具体的に知ろうとする、そんなのほとんどしたことが無い。インタビューで、私はいったいどういう人間なのか、自分のことをどう思っているのか、なんて聞かれると戸惑った。結婚すると、夫はインタビュアーのように私を追求し始めた。とても困った。「自分がどんな人間で、夫にどうしてほしいのかなんて、分からない…考えるのも質問するのも変な気がする…。結婚ってこういうことなのかなあ?」

彼は、それが人として重要なことだと、私を問いただした。それに答えられない自分が、無責任でいいかげんな人間だと言われるようで、苦しかった。四年半の結婚生活の間、結局答えは出せなかった。

彼は真剣に私と向き合ってくれた最初の人だった。

…バツイチになってもうた。

今思うと、私は自分のアイデンティティーを、それと真逆の方法で保ってきたんじゃないかと思う。「人でありたい」という気持ち以外に、自分がどういう人か?なんて考えたことがなかった。いつも、全部でありたい、と思って生きてきた。

男であり女であり、赤子であり老人であり若者であり、子であり母であり、黒くもあり白くもあり、無力であり無敵であり、下品であり上品であり、歌うことが大好きであり大嫌いであり…。

両極とされることは個別の円に見えても、見る角度や、それぞれの円の深さを知ることによって、全ての円が重なり合う素敵な領域があるような気がしてならなかった。

全部でありたい、という気持ちは、「自分を定義する」ことの逆なのかもしれない。「私は女だ、東京に住んでいる、若者だ、これが好きだ、あれが嫌いだ、こうされたい、こわは怖い」といった自己定義は、ただ自己を制約するものを羅列するだけのように思える。自分はああだこうだと、内と外の境界線をはっきりさせる考え方には興味がわかない。

むしろ世界の全てと共通したい。

私の腕を乗せたデスクもこの体を支えるイスも、私とそう違わない。すばらしい会話に夢中になってる時、どこまでが自分でどこまでが相手か分からなくなる瞬間がある。友達と大爆笑してる時、私の一部はもうそこにはいない。

世界を自分の「内」と「外」で分別し出すと、自然からも本能からも離れて行く気がする。なんでもないと同時になんでもある存在になりたい。そんな感覚をずっと持ってた。そんな救済の予感をずっと追っかけてた…。

自分の世界が無限に広がるようで、まだ、「一点」に向かいながら自分の存在が明瞭になっていくような軽やかな気分…「点」って無限なんだぜ。

すでに自分はこの世界の一部なのだから、万物と共感、融合することは、決して自己の喪失ではない。

その帰途に、音楽が位置する。

「音楽は世界の共通語」なんてよく言うけど、まさにそんな感じ?

歌を歌うことは、人であるために必要なことのように思える。

メロディーは、誰かの心の原風景。懐かしい場所からのメッセージ。

リズムは、死へ向かう生命の行進の音。

歌は祈り、願い、誓い。

音楽は、慈悲。

それ以上、音楽の難しいことは知らなくてもいいと思う。


手術
自由とは

七階まで急いでお願いね
意外と狭いエレベーター
誰もいないから安心
「思いやり」から
set me free

弱い部分は隠してた。友達にも家族にも世間にも。多分それがバレバレだったからいつもみんなに心配されてた。かと言って、私につっこんだアドバイスができる、してくれる人がいない。

音楽制作においても、私の担う役割がだんだん増えて、ますます道なき道をもくもくと登る登山家みたいで、小さな体の中で心細さが募る一方だった。自分の、女の弱さみたいなものを認めざるをえなかった。私は男になりたいと思った。

音楽制作の主導権を握れば握るほど、自由を得れば得るほど、孤独になっていった。

で、19才になって早々、卵巣のう腫という病気が発覚した。いつ卵巣がねじれて卵巣ごと摘出しなきゃいけなくなってもおかしくないから、明日にでも手術したほうがいい、と先生に言われた。

「えっと…明日はビデオ撮影があるんで、あさって、お願いできますか?」

というわけで手術は翌々日に決まった。原因不明の病気らしいけど、若い女性の間で増えてるらしいっすよ。女の子は定期的に婦人科に通ってチェックしようぜ。

左の卵巣の中で直径5cmに成長した「のう腫」。私のタイプは、歯や髪の毛や脂肪のかたまりだったらしい。ホルマリン漬けにして持って帰りたかったけど、聞くの忘れちゃった。

腹部の手術は、大変なことだと知った。全身麻酔の手術が予定の倍ほど長引いたせいか、数日間自力でベッドから起き上がるのも苦難で、退院するまではパラマウントベッドにかなりお世話になった。自動ベッドを発案した人、あんたまじサイコー、と思った。

ベッドに補助されて起き上がる時、病室に人がいたら、CMでおなじみの「パァ~ラ~マ~ウントォ~♪あぁ~あ~♪」をへぼへぼの声で歌う余裕は見せてたんだけどね。どうなのよそれ。あたしアホだな。

そして、自力でトイレに行けることの有り難さを知りました。

おじいちゃんおばあちゃん、病気の人、体の不自由な人、ほんと大変だ…。

術後の経過は良かった。けどホルモンバランスやら手術の身体的精神的負担で、仕事ができなくなるほど情緒不安定になった。極限まで我慢したけど、ついに、ある日雑誌の撮影現場に入るなり泣き崩れてしまって、少し落ち着いてから、帰らされた。

プロモーション活動は続行不可能と判断されて、仕事を全部キャンセルすることになった。それまで、精神的にかなり辛い状況下でも体調が悪くてもたんたんと仕事だけはこなしてきた私には、相当なショックだった。申し訳ない気持ちでいっぱいで、関係者に病気の説明をしなきゃいけないことが、余計にストレスになって、それまで支えにしてきた大きな柱が崩れ、わけがわからなくなった。

それは、私にはとても良い薬だった。

荒療治ではあったけど、鎧をはぎとられたような感じで、力の抜けたスタッフが身についた。前より確実にパワフルに、自由に、なった。「ええいしょーがねーこんな私だーなんでもこいやー」。

でも正直怖かった。


20才をむかえて
幸せとは

ないものねだりブルース
皆安らぎを求めている
満ち足りてるのに奪い合う
愛の影を追っている

「自由と責任はセット」ってよく耳にする。フレーズとしてはキャッチーだけど、なんつうか、省略し過ぎじゃね?

「お~う、おれがなんだって責任とるからよ~!好きなことやらせてもらうぜ~!」って開き直って誤解してる人が多い気がする。「責任をとる」って、好き勝手した結果、周りに迷惑をかけたら、また元の居場所へ帰ってお返しすること?尽くすこと?謝ること?辞職すること?これからはもうそんな勝手なことしないよ、って約束すること?――違う。

自由に生きると決めたなら、たくさんの犠牲や痛みが自分にも周りにも生じるだろう。人は、大切なものを犠牲にしたり、失ったり。人を傷つけることを恐れ、日々囚われてる。思いやりと想像力だけでは人は臆病になる。少なくとも私はそんな優しさ見せられても嬉しくない。

「おまえは自由だな~」ってよく言われる。初対面の人からも「なんか自由そう」とか。少し羡ましそうに。

その度に思う、(自由はとても厳しいものだと、分かって言ってるのかな?)って。本気なら、全てを捨てて荒野に飛び出す覚悟があるなら、自ずから選んだ道を進む上で何度となく人に誤解されたり、責められたり、孤独に心をむしばまれようと、苦しい我慢を強いられようと、それはあなたが選んだこと。

「自由に生きる」ことは、決して、「楽に生きる」ということじゃあない。楽な道ばかり選んで生きてる人は、不幸だと思う。

私たちは皆、死を宣告された病人だ。

ナイフのような風に切りつけられながら歩く日が続いても、その場で楽な「死」ではなく、生きることを選ぶ。道しるべも案内人もない。自由はとてもひとりぼっち。でもイイこともた~っくさんある。険しい道を選んだ者には、他の誰にも見ることのできない絶景を目にするチャンスがある。その権利がある。

厳しさに耐えられず途中放棄した者は、その後大変な責任を負うことになるだろう。前よりも不自由になるだろう。

「自由と責任はセット」の本当の意味は、「自由な生き方を選んだら、引き返さない責任があるよ、その覚悟できてんの?」だと思う。

引き返すこと、後悔することは無責任だ。

愛する人たちがどんな気持ちで自由に生きようとするあなたを送り出したか。彼らの涙はなんだったのか。愛する人たちから遠ざかりたいと言ってるんじゃないよ。それはなかなか理解してもらえないかもしれない。時間がかかるかもしれない。でもきっと伝わる。伝えようと努力する責任がある。決して、一人で生きてるんじゃない。

だから、「誰にも理解されなくてもいいんだ、これが俺なんだ!」なんて思ってる人はカッコ悪いと思うし、そういう気持ちで作られた音楽は、聴くに値しない。

精神は肉体に、肉体は精神に、直結してる。同じ場所にあるんだから当然か。

だから原因不明ののう腫が長年私の中で成長していたのもなんだか納得できる。のう腫に感謝してる。何年も共に成長してきたあいつが、摘出された後、汚れた注射針やゴム手袋と一緒に捨てられる姿を想像すると、なんだか可哀想な気がする。バイバイ。

病んだ肉体で良い精神状態を保てるはずがない。病んだ精神をかっこいいなんて思わない。

健康って本当に大事。

私は、いつの間にか自由に生きることを強いられてたような気がする。でも今は自分の意志でそうしてる。何度も人を深く傷つけたし、私もボロボロになった。これからもそんなことを繰り返すかもしれない。でも、怖くない。不思議な安心感を持って未来へ向かってる。

過去の全てに、今とても感謝してる。幸せってそういうことだと思う。



変わらない課題

コートを脱いで中へ入ろう
始まりも終わりも無い
今日という日を素直に生きたい

さて、私の長年に渡る大いなる課題!

それは、目の前の人に、素直な気持ちを伝えること。

誰にだって難しいのは分かってるけど、なんでこんなにうまくいかないんだろう。かれこれ20年近くこの難題と向き合ってる。

7才の時、先生にプレゼントをもらった。とってもかわいいピンク色のフォトアルバムだった。すごく嬉しかった。でも先生は「…どうしたの?もう同じの持ってた?ごめんね、こういうの趣味じゃなかったのかな…」と言って落ち込んでしまった。多分私は悲しい顔をしてたんだと思う。

仕事で写真撮影をするようになって、カメラマンに一番よく言われたのは「そんな悲しい顔しないで、もっと笑って。」

(え、普通にしてるつもりなんですけど…。)

今も、「嬉しさ」なんかを表現しようと必死になればなるほど、へたくそな演技みたいになっちゃうことが自分でも分かる。

私はいつも、相手の身になって、その人に伝わるように言葉や手段を選んで話す。それ以外に話をする方法がわからない。時々、そこに「作為」を感じられてしまうことがある。私は心をこめて話をしてるのに、ちょっと勘のいい人には、真意や誠意を疑われたりする。そんな時、すごく悲しい。悲しくて、死にたくなる。

最近、遠藤周作の「十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。」という本に出会った。そこには、「読む人の身になって言葉を選ぶことが、良い手紙の書き方の基本」という言葉があった。とても救われた気がした。私は、手紙を書くようにしか、目の前の人とも話すことができない、ただそれだけなんだ、と思った。

でも、それでいい、とは思ってない。

今の私にできることは、誰もいないところで大声で叫んだり、気絶するまで泣いたり、一生懸命手紙を書いたりすること。それが私の歌。言葉。音楽。

家族、恋人、友達、今まで出会った人たち、私を遠い場所から見てる人、私を好きな人、私を嫌いな人――私のコートの内ポケットはみんなの存在でパンパンで、私はすこし不格好に見える。

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